木桶仕込みの未来を語るのはこのお二人

職人醤油|高橋万太郎さん

全国の蔵元を巡り、選りすぐりの醤油を取り扱うセレクトショップ「職人醤油」を運営。訪問した醤油蔵は400軒以上にのぼり、「つくり手の顔が見える醤油のある暮らし」をテーマに、ECサイト運営やイベント企画、講演活動を行う。木桶仕込みの醤油文化を次世代へつなぐため、業界内外の連携にも積極的に取り組んでいる。

ヤマクロ醤油|山本康夫さん

香川県・小豆島に蔵を構える「ヤマクロ醤油」の5代目当主。2009年、戦後初の新桶を藤井製桶所に発注したことを皮切りに、木桶職人復活プロジェクトを主導。自身も大工とともに桶づくりを習得し、「木桶で仕込む醤油」の魅力を国内外に発信している。「おもろいか、おもろくないか」がすべての判断基準。業界を巻き込みながら、“木桶の1%を世界へ”というビジョンを掲げて活動中。

「伝統」と「革新」のその先へ、木桶と生きる醤油づくりのこれから

木桶仕込みは“時代遅れ”だった?

「木桶の醤油ってどんなイメージですか?」と話し始めた万太郎さん。
今でこそ、「伝統」「美味しさ」「職人のこだわり」といったポジティブなイメージが強い木桶醤油ですが、50年前は真逆だったといいます。

戦後から高度経済成長期にかけて、食品業界では効率化が最優先事項に。機械による大量生産こそが“進化”とされ、木桶は「古臭くて使いづらいもの」と扱われるようになったそうです。

そして、醤油業界でも「木桶を手放し、ステンレスタンクに置き換えるのが当たり前」という時代が長く続きました。その結果、木桶を作る職人は仕事を失い、2000年頃には全国で1社を残すのみとなってしまったのです。

「100年以上使える木桶は、一度作れば次の注文が100年後になる」と山本さん。木桶職人にとって、それはビジネスとして成立しにくい現実でもありました。

「桶不足」という転機から訪れた木桶職人復活プロジェクト

戦後初の新桶発注で見えた、伝統継承の困難さ。そこで生まれた復活プロジェクト。

木桶仕込みで醤油をつくっていたヤマクロ醤油でも、2000年代後半に大きな転機が訪れます。「醤油が売れすぎて、桶が足りない」という前代未聞の事態に直面したのです。

2009年、山本さんは大阪・堺にある藤井製桶所へ、新たに9本の木桶を発注しました。実に戦後初となる新桶の注文でした。
「最初は“あんたらが戦後初やで”と言われました。そりゃそうですよね、それまで何十年も誰も新しく木桶を作っていなかったんですから」と山本さん。

しかし、その後も材料不足や製造ノウハウの消失といった課題が次々と立ちはだかります。
「このままだと、日本に残る木桶はうちの9本だけになるかもしれない。だったら自分たちで作るしかない!」
この“無謀”とも言える決断が、「木桶職人復活プロジェクト」の出発点となりました。

「おもろいか、おもろくないか」で道を選ぶ山本さんの漢気

山本さんは、困難な決断を下す際に「おもろいか、おもろくないか」で判断するそうです。

「難しそうやけど、おもろそうやん!」

そんな直感のもと、同級生で大工の坂口さんを巻き込み、桶づくりの挑戦がスタートしました。

修行2日半、執念で作り上げた1本目の木桶から生まれた想い

木桶職人・坂口直人さん

叱られ、笑われ、それでも手を止めなかった職人魂

木桶づくりの技術を学ぶため、藤井製桶所に弟子入りしたのは、わずか2日半。
「竹で編む作業をやってみろ」と言われ、いきなり叱られます。「発注主なのに怒られるなんて…」とぼやきつつも、山本さんは怒られるたびに燃えるタイプ。「絶対やってやる」と無我夢中で学び、坂口さんと2人で自主練習まで重ねました。

そして2013年、ついに1本目の木桶が完成します。しかし、道のりは平坦ではありませんでした。
「道具も材料もそろわない、作り方も忘れている、30分おきにトラブルが起きる」「寸法のミリ単位で2時間議論したり、夜は寝言で木桶の話をしていた」と振り返る山本さんと坂口さん。2人とも睡眠不足で円形脱毛症になったという逸話も、苦笑まじりに語られました。

それほどの熱意と執念が、消えかけていた技術に再び命を吹き込みました。。

醤油業界全体を巻き込む「1%→2%」の挑戦

1本目の木桶が完成すると、メディアも注目し、ヤマクロ醤油の売上は一気に伸びました。
しかし山本さんは、ここで立ち止まりません。


「うちだけが売れても、職人の仕事は増えない。業界全体で木桶の価値を高めないと意味がない。」

そこで山本さんは、全国の醤油蔵に声をかけ、共に木桶を作る取り組みを提案。最初は「蔵の秘密を他社に見せられるか!」と反発もありましたが、少しずつ理解者が増え、現在では毎年1〜2月に小豆島で木桶を共同製作する恒例イベントが生まれました。

毎年1月の小豆島は桶づくりの聖地に

“変態”たちが集まる非公開イベントの熱量がすごかった!

毎年1月から2月にかけて、小豆島に全国の蔵元や職人たちが集まり、木桶を共同で作るイベントが開催されています。


こうして集まる人たちは、みな「(良い意味で)変態」と山本さんは語ります。

「変なことを真剣にやってる人って、ほんまにおもろいんですよ」

その言葉通り、最初は数人だった参加者も、今では30社・人以上。手が余るほど人が増えてきた2020年には、参加者の知見を活かして「木桶サミット」もスタート。木桶醤油×ラーメン、木桶醤油×パン、木桶醤油×クラフトビールなど、異業種との掛け算が生まれる場となり、発酵文化が横断的につながる場として注目されています。

木桶は世界で通用する。日本の「1%→2%」から「グローバルの1%」へ

発酵=プレミアムという価値観を武器に海外へ

2020年以降、プロジェクトは次のステージへ。山本さんは、「世界の1%を目指す」と宣言します。
世界の人口は約80億。ソイソースとしての認知はあっても、発酵食品としての“木桶仕込み”はまだ知られていません。

「工場のタンクで作られたソイソースと、木桶で1年かけて醸した醤油は全くの別物。ワインやウイスキーのように、プレミアム商品として確立できる」と山本さん。

こうした熱い想いが、農林水産省の輸出プロジェクトにも認定され、世界の展示会への出展や、海外バイヤーへのPRも進んでいます。

若手が集う、業界でも異例の木桶チーム

驚くべきことに、このプロジェクトには20〜30代の若手職人が続々と参加しています。
醤油業界全体では高齢化が進む中、木桶プロジェクトの周りにだけ“若者が集まる”という面白い現象が起きているのだそうです。

展示会では、1,000万円規模のブース運営も若手に一任。彼らの大胆な発想がプロジェクトの熱量をさらに高めています。

醤油の味は社長の人柄に似ている?

微生物と人の関係性が、発酵の奥深さを物語る

「醤油の味は、社長の性格に似るんですよ」

この言葉に、会場から笑いと驚きの声が上がりました。

実際、同じ原料・同じ種麹を使っていても、仕上がる味は蔵ごとに異なるそう。
蔵の構造、湿度、空気の流れ、そして何より作り手の“雰囲気”が、蔵に棲む微生物に影響を与えているのではないか――

そんな仮説を、万太郎さんは熱っぽく語ります。

「控えめな社長の蔵の醤油は、上品でやさしい。前に出る社長の醤油は、ガツンと主張する。面白いくらい、その人らしさが出るんです。」

そのお話を聞いて、その違いを試したくなりました。

つながるバトン:合言葉は「やったるでー!」「オッケー!」

世代交代で、木桶文化はさらに自由になる

「僕らはもう邪魔になるから」と笑いながらも、2025年度をもって、山本さんと万太郎さんは第一線から退き、若手へバトンを渡すことを宣言しました。

これまでの「背中で語る」姿勢から、「自分たちで考え、自分たちで決める」世代へと移行します。伝統を引き継ぎながらも、自分たちのやり方で再構築していく──。

その自由と責任を、次の世代がいま、力強く引き受けています。

木桶づくりのイベント運営や輸出プロジェクト、展示会の設営・広報まで――かつてはベテランの手で担われていた仕事を、今は20代・30代の若手がごく自然に引き継いでいます。彼らは“受け継ぐ側”であると同時に、すでに“育てる側”としての一歩も踏み出している――そんな姿が垣間見えたお話でした。

木桶は“過去”ではなく“未来”である

イベントの最後には、会場全体に恒例の掛け声が響き渡りました。

「やったる(樽)でー!」「オッケ(桶)ー!」

その瞬間、木桶職人たちの想いに共鳴する声が、渋谷の会場を包み込みました。

木桶は、単なる道具ではありません。木、鉄、竹、縄、微生物、職人の技術と感性が一体となって生まれる、“生きた器”です。

重く、場所を取り、手間がかかる。けれども、だからこそ、そこにしか宿らない味と文化があるのです。

「変わらないこと」が美徳とされることもありますが、木桶文化の担い手たちは、「変えながら守る」「面白がって進化させる」ことを選びました。

“やったるで”と“オッケー”の掛け声も、盛り上げるためのパフォーマンスではなく、文化を次世代へ託すという意思表明であり、挑戦者たちの合図。

木桶は、「変化を受け入れ、継がれていく文化」として、今まさに、新たな命を吹き込まれている――

そんなことを強く感じたセッションでした。それと同時に、今後の木桶文化が世界へと広がっていく未来を一緒に盛り上げていきたいという想いが芽生えた時間でもありました。